2008年11月13日木曜日

八十

 日取が狂って予期より早く産気《さんけ》づいた細君は、苦しそうな声を出して、傍《そば》に寐《ね》ている夫の夢を驚ろかした。
「先刻《さっき》から急に御腹《おなか》が痛み出して……」
「もう出そうなのかい」
 健三にはどの位な程度で細君の腹が痛んでいるのか分らなかった。彼は寒い夜の中に夜具から顔だけ出して、細君の様子をそっと眺めた。
「少し撫《さす》って遣《や》ろうか」
 起き上る事の臆劫《おっくう》な彼は出来るだけ口先で間に合せようとした。彼は産についての経験をただ一度しか有《も》っていなかった。その経験も大方は忘れていた。けれども長女の生れる時には、こういう痛みが、潮の満干《みちひ》のように、何度も来たり去ったりしたように思えた。
「そう急に生れるもんじゃないだろうな、子供ってものは。一仕切《ひとしきり》痛んではまた一仕切治まるんだろう」
「何だか知らないけれども段々痛くなるだけですわ」
 細君の態度は明らかに彼女の言葉を証拠立てた。凝《じっ》と蒲団《ふとん》の上に落付《おちつ》いていられない彼女は、枕を外して右を向いたり左へ動いたりした。男の健三には手の着けようがなかった。
「産婆を呼ぼうか」
「ええ、早く」
 職業柄産婆の宅《うち》には電話が掛っていたけれども、彼の家にそんな気の利いた設備のあろうはずはなかった。至急を要する場合が起るたびに、彼は何時でも掛りつけの近所の医者の所へ馳《か》け付けるのを例にしていた。
 初冬《はつふゆ》の暗い夜はまだ明け離れるのに大分《だいぶ》間があった。彼はその人とその人の門《かど》を敲《たた》く下女《げじょ》の迷惑を察した。しかし夜明《よあけ》まで安閑と待つ勇気がなかった。寝室の襖《ふすま》を開けて、次の間から茶の間を通って、下女部屋の入口まで来た彼は、すぐ召使の一人を急《せ》き立てて暗い夜の中へ追い遣った。
 彼が細君の枕元へ帰って来た時、彼女の痛みは益《ますます》劇《はげ》しくなった。彼の神経は一分ごとに門前で停《とま》る車の響を待ち受けなければならないほどに緊張して来た。
 産婆は容易に来なかった。細君の唸《うな》る声が絶間《たえま》なく静かな夜の室《へや》を不安に攪《か》き乱した。五分経つか経たないうちに、彼女は「もう生れます」と夫に宣告した。そうして今まで我慢に我慢を重ねて怺《こら》えて来たような叫び声を一度に揚げると共に胎児を分娩《ぶんべん》した。
「確《しっ》かりしろ」
 すぐ立って蒲団の裾《すそ》の方に廻った健三は、どうして好《い》いか分らなかった。その時例の洋燈《ランプ》は細長い火蓋《ほや》の中で、死のように静かな光を薄暗く室内に投げた。健三の眼を落している辺《あたり》は、夜具の縞柄《しまがら》さえ判明《はっきり》しないぼんやりした陰で一面に裹《つつ》まれていた。
 彼は狼狽《ろうばい》した。けれども洋燈を移して其所《そこ》を輝《てら》すのは、男子の見るべからざるものを強《し》いて見るような心持がして気が引けた。彼はやむをえず暗中に摸索した。彼の右手は忽《たちま》ち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪廓からいっても恰好《かっこう》の判然しない何かの塊《かたまり》に過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で撫《な》でて見た。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものが剥《は》げ落ちるように思えた。もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違ないと彼は考えた。彼は恐ろしくなって急に手を引込《ひっこ》めた。
「しかしこのままにして放って置いたら、風邪《かぜ》を引くだろう、寒さで凍《こご》えてしまうだろう」
 死んでいるか生きているかさえ弁別《みわけ》のつかない彼にもこういう懸念が湧《わ》いた。彼は忽ち出産の用意が戸棚の中《うち》に入れてあるといった細君の言葉を思い出した。そうしてすぐ自分の後部《うしろ》にある唐紙《からかみ》を開けた。彼は其所から多量の綿を引き摺《ず》り出した。脱脂綿という名さえ知らなかった彼は、それをむやみに千切《ちぎ》って、柔かい塊の上に載せた。

0 件のコメント: