2008年11月13日木曜日

八十三

 子供は一番気楽であった。生きた人形でも買ってもらったように喜んで、閑《ひま》さえあると、新らしい妹《いもと》の傍《そば》に寄りたがった。その妹の瞬《またた》き一つさえ驚嘆の種になる彼らには、嚏《くさめ》でも欠《あくび》でも何でもかでも不可思議な現象と見えた。
「今にどんなになるだろう」
 当面に忙殺《ぼうさい》される彼らの胸にはかつてこうした問題が浮かばなかった。自分たち自身の今にどんなになる[#「なる」に傍点]かをすら領解し得ない子供らは、無論今にどうするだろうなどと考えるはずがなかった。
 この意味で見た彼らは細君よりもなお遠く健三を離れていた。外から帰った彼は、時々洋服も脱がずに、敷居の上に立ちながら、ぼんやりこれらの一団を眺めた。
「また塊《かたま》っているな」
 彼はすぐ踵《きびす》を回《めぐ》らして部屋の外へ出る事があった。
 時によると彼は服も改めずにすぐ其所《そこ》へ胡坐《あぐら》をかいた。
「こう始終|湯婆《ゆたんぽ》ばかり入れていちゃ子供の健康に悪い。出してしまえ。第一いくつ入れるんだ」
 彼は何にも解らないくせに好《い》い加減な小言《こごと》をいってかえって細君から笑われたりした。
 日が重なっても彼は赤ん坊を抱いて見る気にならなかった。それでいて一つ室《へや》に塊っている子供と細君とを見ると、時々別な心持を起した。
「女は子供を専領してしまうものだね」
 細君は驚ろいた顔をして夫を見返した。其所《そこ》には自分が今まで無自覚で実行して来た事を、夫の言葉で突然悟らされたような趣もあった。
「何で藪《やぶ》から棒にそんな事を仰《おっし》ゃるの」
「だってそうじゃないか。女はそれで気に入らない亭主に敵討《かたきうち》をするつもりなんだろう」
「馬鹿を仰ゃい。子供が私《わたくし》の傍《そば》へばかり寄り付くのは、貴夫《あなた》が構い付けて御遣《おや》りなさらないからです」
「己《おれ》を構い付けなくさせたものは、取《とり》も直さず御前だろう」
「どうでも勝手になさい。何ぞというと僻《ひが》みばかりいって。どうせ口の達者な貴夫には敵《かな》いませんから」
 健三はむしろ真面目《まじめ》であった。僻みとも口巧者《くちごうしゃ》とも思わなかった。
「女は策略が好きだからいけない」
 細君は床の上で寐返《ねがえ》りをしてあちらを向いた。そうして涙をぽたぽたと枕の上に落した。
「そんなに何も私《わたくし》を虐《いじ》めなくっても……」
 細君の様子を見ていた子供はすぐ泣き出しそうにした。健三の胸は重苦しくなった。彼は征服されると知りながらも、まだ産褥《さんじょく》を離れ得ない彼女の前に慰藉《いしゃ》の言葉を並べなければならなかった。しかし彼の理解力は依然としてこの同情とは別物であった。細君の涙を拭《ふ》いてやった彼は、その涙で自分の考えを訂正する事が出来なかった。
 次に顔を合せた時、細君は突然夫の弱点を刺した。
「貴夫|何故《なぜ》その子を抱いて御遣りにならないの」
「何だか抱くと険呑《けんのん》だからさ。頸《くび》でも折ると大変だからね」
「嘘《うそ》を仰しゃい。貴夫には女房や子供に対する情合《じょうあい》が欠けているんですよ」
「だって御覧な、ぐたぐたして抱き慣《つ》けない男に手なんか出せやしないじゃないか」
 実際赤ん坊はぐたぐたしていた。骨などはどこにあるかまるで分らなかった。それでも細君は承知しなかった。彼女は昔し一番目の娘に水疱瘡《みずぼうそう》の出来た時、健三の態度が俄《にわ》かに一変した実例を証拠に挙げた。
「それまで毎日抱いて遣っていたのに、それから急に抱かなくなったじゃありませんか」
 健三は事実を打ち消す気もなかった。同時に自分の考えを改めようともしなかった。
「何といったって女には技巧があるんだから仕方がない」
 彼は深くこう信じていた。あたかも自分自身は凡《すべ》ての技巧から解放された自由の人であるかのように。

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