2008年11月7日金曜日

百二

 比田と兄が揃《そろ》って健三の宅《うち》を訪問《おとず》れたのは月の半ば頃であつた。松飾の取り払われた往来にはまだどことなく新年の香《におい》がした。暮も春もない健三の座敷の中に坐《すわ》った二人は、落付《おちつ》かないように其所《そこ》いらを見廻した。
 比田は懐から書付を二枚出して健三の前に置いた。
「まあこれで漸《ようや》く片が付きました」
 その一枚には百円受取った事と、向後《こうご》一切の関係を断つという事が古風な文句で書いてあった。手蹟《て》は誰のとも判断が付かなかったが、島田の印は確かに捺《お》してあった。
 健三は「しかる上は後日に至り」とか、「后日《ごじつ》のため誓約|件《くだん》の如し」とかいう言葉を馬鹿にしながら黙読した。
「どうも御手数《おてすう》でした、ありがとう」
「こういう証文さえ入れさせて置けばもう大丈夫だからね。それでないと何時まで蒼蠅《うるさ》く付け纏《まと》わられるか分ったもんじゃないよ。ねえ長《ちょう》さん」
「そうさ。これで漸く一安心出来たようなものだ」
 比田と兄の会話は少しの感銘も健三に与えなかった。彼には遣《や》らないでもいい百円を好意的に遣ったのだという気ばかり強く起った。面倒を避けるために金の力を藉《か》りたとはどうしても思えなかった。
 彼は無言のままもう一枚の書付を開いて、其所に自分が復籍する時島田に送った文言《もんごん》を見出した。
「私儀《わたくしぎ》今般貴家御離縁に相成《あいなり》、実父より養育料差出|候《そうろう》については、今後とも互に不実不人情に相成ざるよう心掛たくと存《ぞんじ》候」
 健三には意味も論理《ロジック》も能《よ》く解らなかった。
「それを売り付けようというのが向うの腹さね」
「つまり百円で買って遣ったようなものだね」
 比田と兄はまた話し合った。健三はその間に言葉を挟《さしはさ》むのさえ厭《いや》だった。
 二人が帰ったあとで、細君は夫の前に置いてある二通の書付を開いて見た。
「こっちの方は虫が食ってますね」
「反故《ほご》だよ。何にもならないもんだ。破いて紙屑籠《かみくずかご》へ入れてしまえ」
「わざわざ破かなくっても好《い》いでしょう」
 健三はそのまま席を立った。再び顔を合わせた時、彼は細君に向って訊《き》いた。――
「先刻《さっき》の書付はどうしたい」
「箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》にしまって置きました。」
 彼女は大事なものでも保存するような口振《くちぶり》でこう答えた。健三は彼女の所置を咎《とが》めもしない代りに、賞《ほ》める気にもならなかった。
「まあ好《よ》かった。あの人だけはこれで片が付いて」
 細君は安心したといわぬばかりの表情を見せた。
「何が片付いたって」
「でも、ああして証文を取って置けば、それで大丈夫でしょう。もう来る事も出来ないし、来たって構い付けなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃ今までだって同じ事だよ。そうしようと思えば何時でも出来たんだから」
「だけど、ああして書いたものをこっちの手に入れて置くと大変違いますわ」
「安心するかね」
「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」
「まだなかなか片付きゃしないよ」
「どうして」
「片付いたのは上部《うわべ》だけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」
 細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆《ほと》んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他《ひと》にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
 健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好《い》い子だ好い子だ。御父さまの仰《おっし》ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
 細君はこういいいい、幾度《いくたび》か赤い頬《ほお》に接吻《せっぷん》した。

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